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平成12年 5月15日更新
第29回 日本伝統工芸近畿展図録より転載しました。
(平成12年 5月 1日発行)
![]() 原石 平成6年の第23回日本伝統工芸近畿展では、陶器の原料である陶土をとりあげ、信楽(滋賀県)、丹波(兵庫県)について概観した。今回は、磁器の原料である陶石について紹介する。 陶芸は、土石類を細かく砕いて水で練り、形にしては火で焼き固め器物を作る技術である。焼き物は、粘土で作ったものを陶器、花崗岩などの風化した石を原料に作ったものを磁器というように一般的に分けているが、同一原料でも焼成温度により陶器あるいは磁器が焼成されるので、原料及び品質からの分類は一定していない。
陶器は、ガラス質を含む吸水性のある素地に多くは施釉した焼物である。陶器は、長石質陶器、石灰質陶器、粘土質陶器に大別されるが、その主流を占めているのは粘土質陶器で、中世に起源を持ち今日まで続く六古窯と呼ばれる焼物はすべてこの部類に属している。磁器は、原料にガラス質を多く含んだ陶石(または磁土)を用い、焼成により陶石の粉末を練り固めた素地が溶けてガラス状になったものである。素地は白色、透明ないしは半透明で、全く吸水性がなく陶器より固い焼物である。日本での磁器の始まりは、江戸時代の元和年間(1615〜1624)に肥前有田(佐賀県西松浦郡有田町)で李参平が泉山で陶石を発見し、成形と焼成に成功して白磁を作ったのが最初といわれている。
京焼の名を一躍高めたのは丹波野々村(現美山町)出身の陶工野々村仁清である。彼は仁和寺前に窯を築き、薄手で華麗な色絵陶器を制作し、京焼隆盛の基礎を作った。また、彼の弟子の尾形乾山は閑寂な絵付を施したが、その風は茶道に適し大いにもてはやされた。京焼において、最初に磁器焼成をなしとげたのは奥田顛川である。五条坂での磁器生産は、二代高橋道八、二代和気亀亭らが力を合わせて開発に当たり、有田の製法を取り入れて文化年間(1804〜1818)に始まった。京焼は、地域性にとらわれず、すべての様式、技法を取り入れ、それを駆使する一方で京風に昇華させて多彩な陶磁器を生産したため、京都は、瀬戸、美濃、有田と並ぶ一大窯業地となった。
現在、京都以外の磁器の生産地としては、九谷(石川県)、多治見(岐阜県)、瀬戸(愛知県)、出石(兵庫県)、砥部(愛媛県)、有田(佐賀県)などがある。磁器の製作には、まず蛙目粘土、カオリン、珪石、長石、陶石などで原料の調整から始める。陶石は天草(熊本県)が主要産地であるが、近畿では出石でもわづかに生産している。
出石焼は、天明年間(1781〜1789)に長谷治郎兵衛と伊豆屋弥左衛門が出石郡細見村桜尾(出石町細見)に窯を築いたのが始まりとされる。その後、享和元年(1801)に谷山村(出石町谷山)に移り備前風の丸窯で磁器を製造した。出石の母岩は石英租面岩で、昔から透き通るように色が白く細工がしやすいという可塑性に優れるため、彫文や透彫を施した精巧な細工物が多く作られてきた。
今回、会場には3点の紀年銘をもつ出石焼(いずれも個人蔵)を展示した。白磁碗(口径11.5cm、高さ6.5cm)、染付天目台(口径15cm、高さ15cm)、白磁香炉(口径25cm、高さ15cm)の底部裏面には、いずれも「文化三丙寅三月 於入佐山梺焼之 願主皿山中世話人辻市左衛門」と同じ銘文を呉須で書く。このことから、文化3年(1806)には、出石町入佐山山麓で磁器が焼かれていたことがわかる。出石焼に関しては、この文化3年が在銘最古の資料である。
出石陶石は、現在同町谷山に所在する柿谷鉱山でのみ採掘されている。出石では、かつていくつかの鉱山があり陶石が採取されていたが、不況と埋蔵量の減少などのため、日本陶料株式会社(京都市山科区)が所有する柿谷鉱山が唯一となった。日本陶料株式会社は、家内工業的であった陶磁器の制作用の土を大量に生産し、京焼の原料を安定供給するために渋沢栄一が発起人となり、明治44年(1911)に設立された京都最古の陶磁器原材料供給メーカーである。よりよい原料を作るため、特に加工の仕方に工夫しているという。
協力・資料提供 日本陶料株式会社
写真 出水伯明氏
協賛 松下電器産業株式会社
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製作著作
社団法人日本工芸会
2000